私の体験のページ
【ダイエット体験】
近頃、歳のせいか遠い昔の回想をすることが多くなり、先日もRIZAPの痩せて引き締まった身体に変貌するCM見ていて、忘れていた訳ではないのですが、三十数年前、私が二十代半ばの時、2ヶ月で約16キロのダイエットをしたことを思い出しました
ダイエットしたあとに友人とサウナに行った際、私のお腹周りを見て(あしたジョーの)力石のようだな、と言われことを思い出しました 。(今も体重はそのころとほとんど変わりませんが、ウエストは10cmくらい違いますね。)
私は、人生五十数年間で大半は痩せ気味か、普通の状態なのですが、人生で2度ほど太ったことがあって、太っていたと言っても最高76kg(身長174cm)です。
でも通常が58〜62kg程度なので68超えると太ったと感じますね。
1度目は10代後半、湖池屋のポテトチップスにはまり、毎日のようにポテトチップスとコーラを欠かさなかったため、自然に10キロほど増量となりましたが、その時は若いこともあり、やめたら自然に元に戻りました。
2度目が、今度はポカリスエットにはまり、当時、舘ひろしがCMしていた瓶のボトルを風呂上りに一気飲み、真夏には粉末で作ったものを氷の入った水筒に入れ夜中にゴクゴク、それと仕事が忙しくて、会社で夕食、夜中帰宅してから自宅でまた食べる生活が半年ほど続き13キロ増なってしまいました。
もちろん、そんな生活は改めて、やせようといろいろ試してみましたが、なかなか続かず3年ほど太った生活が続いたある年の新年、初詣で友人たちと撮った写真を見て、決意、お金はかけないで2ヶ月で16キロ、これは太る前より3キロ多くへらして、少しくらい戻ることを想定して初めから目標にした数字でした。
ダイエット方法は、とにかく結果を早く出す、というのが一番の目標でしたので、まず、夕食は抜く、朝は元々食べなかったのでなし、昼は軽めにという感じですね。
ただ、付き合いで飲みに行ったりとか、飲んだ後のラーメンも付き合っていましたが、もちろんラーメンはスープは飲まないし、つまみも控えめにはしていました。
しかし、それだけでは前夜のカロリーオーバーは取り消せないので、飲んだ翌日は1食もしないというルールにしていました。
1週間で5キロはすぐ痩せたのですが、残りの11キロはつらかったですね。
食べなかっただけではなく、寝る前に30分程度ですが運動もしてました。
それと、昼はやや軽めではありますが、ほとんど普通に食べているので、2日に1回くらいは出るものを出さないと調子が悪いのですが、やはり食べる量が少ないため自力では難しいので、これはしょうがないと思い、弱めの便秘薬は週2~3回ほど飲んでいました。
本当は、1ヶ月で目標を達成したかったのですが、やっぱり2ヶ月かかってしまいましたが無事成功。
その後リバウンドもなく、三十数年間、多少の増減はありますが痩せ気味が続いています。
ただ、フリーランスになってから、5キロほ増えてズボンがきつくなってちょっとやばい状況ですね。(その後さらに3キロ増えて計8キロ増、2度目のダイエットを実施。
「人生2度目のダイエット」
2度目のダイエットから約35年後になります。
今度は目標も前回の3分の1程度の5〜6キロを目標に前回ような無理はせずにゆっくり痩せることにしました。
なんといっても痩せるのに一番必要なのは強い意志ですね。
それにはやはり、少しずつでも結果が出続けることですね、結果が出ることによってやる気が出て、痩せようと思う意思も徐々に強くなっていくと思います。
35年前の前回は食事制限がメインでしたが、今回は運動、と言っても歩きですが、帰宅時に勤め先の最寄りの駅(徒歩6分程度)から乗車せずに1時間歩いたけど駅から乗るようにしました。
それと晩酌のビールと缶チューハイはカロリーoff、つまみも少なめにしました。
毎日結果を楽しみに体重計に乗ることも大切ですね。
新年度から始めて梅雨明け後の上着を脱ぐ季節までなんとか間に合うことが出来ました。
約4ヶ月で6キロのダイエットに成功。
結果が出ているうちは挫折しないですね。
お金と時間に余裕があればライザップで綺麗にダイエットしてみたとも思います。
でも、やはり成功の秘訣は強い意志ですね。
【二度大地震体験】
私が経験した大地震体験を紹介します。
この体験も私の人生にプラスなっていますね。
私はこれまでの人生で、二度の大地震を体験していますが、最近各地で大きい地震が多くなっていると思いませんか、怖いですね。
地震はいつどこで起きてもおかしくない日本ですが、もう二度と体験したくないですね。
でも、今後も体験する確率は高いですね。
まず初めて体験したのは、私の17歳の誕生日の翌日に起きた宮城県沖地震です。
近頃は、この40年前の宮城県沖地震が起きた時期より確実に各地で大きな地震が起きている感じはありますね。
私がこの宮城県沖地震を体験する前は、地震は確かに怖かったですが、地震は起きても揺れはすぐ収まるものと思っていました。
この40年前のこの日ことは、もちろん生まれて初めての経験で、それまでの17年の間の体験した地震では、経験したことのない加速するような揺れ、そして長い揺れ。
そんな経験のないような揺れる中、私は生まれて初めてこのまま死んでしまうのかな、と本当に思いました。誕生日の翌日だったため、「昨日17歳になったばかりなのに、自分は17歳でこの世を去る運命だったのだ」と強く思うような恐怖を感じた地震でした。
地震の当日、ブラスバンド部員だった私は、その日、野球部の試合の応援のため学校へは行かず宮城球場(現 楽天生命パーク宮城)から直接帰宅していました。
今でも地震直前のことはよく覚えていて、遊びに来ていた友人が帰ったあと、テレビでは再放送の「水戸黄門」が終わり、同じく再放送の「オバケのQ太郎」が始まっていました。
午後5時過ぎだったと思います。
突然、物凄い横揺れが来て電気は消え隣の酒屋の瓶の割れる音、叫び声、本当に何もかも初めての体験でした。
もちろん、地震で物が倒れてくるということは、物心ついてから覚えがありませんでした。
幸い私は特に重大な被害はなかったのですが、地震直後から停電になり、私にとって一晩中電気ないという経験は初めてだったと思います。
それに当時は携帯電話は当然ないので、テレビも見れない、買い置きの電池もなくラジオも途中で切れてしまったと思います。
店はどこも閉まったまま、当時はコンビニもありません。
情報が何も得られなかったので、とりあえず翌日は学校へ登校しました。
学校へ行くと、半数以上は欠席していて出席した生徒だけで教室などの片づけをしたと思います。
図書室なんかは悲惨な状態になっていました。
クラスメイトやその家族にも大きな被害は特になかったようです。
他にも建物や道路には、ところどころに亀裂があり、倒れたブロック塀も初めて見ました。
40年前のことですが忘れられない6月12日です。
それからも宮城県は度々強い地震が起きていましたが、どれも想定されている宮城県沖ではなく、度々ニュースで伝えられる宮城県沖地震は、起きる確率を非常に高く、またあの時のような地震がくるのか、と、とても不安になっていました。
でも、それから30数年後、その地震の規模をはるかに超える大地震を体験するとは、ましてその地震は言われている宮城県沖地震とは別の地震でだったいうこと、そしてその地震のあとに大きな大きな映画でも見ているような巨大津波が襲って2万人近い死者・行方不明者が出るような大震災になったことは、誰も想像できなかったと思います。
その地震の当日、私は朝から会議室でパート社員の採用面接を行っていて、午後一番の方まで順調に進んでいましたが、午後の2番目の人が来ないので近所のコンビニへお茶を買いに行き、会議室へ戻る途中、買ってきたお茶のふたを開け一口飲もうとした時、突然地面がゴーッという音とともに揺れ小刻みな揺れが始まり、同時に携帯から緊急地震速報がなり始め、徐々にゴーという音と揺れが激しくなり、会社の建物の中からは社員の悲鳴と物が倒れたり、壁が落ちるようないろいろ音が鳴り響き、近所の建物も今にも崩れてしまいそうな音と揺れ。
遠くの方からも何か大きい物でも倒れたのか、ものすごい音も聞こえました
駐車場の車は跳ね上がり、そのためセキュリティが作動してヘッドライトを点滅させながらクラクションが鳴り響き車同士が今にもぶつかりそうに上下左右に揺れていました。
揺れはなかなか収まらず、さらに加速するような揺れ、たまらず全社員が外へ避難。
すごく長い時間に思えました。
大きな揺れが収まってからも数分おきに余震が起き、怖くて建物の中にはいられない状態でした。
外は3月とは思えないほどの寒さで地震のあとは雪も舞っていました。
家族には何とか携帯が繋がり無事を確認しましたが、そのころ海岸沿いの地域では巨大津波で大変な事態になっていたとは、知る余地はありませんでした。
会社ではすぐ話し合いが行われ建物の中は危機だと言うことで、全員強制帰宅となりました。
仕事で福島県の海岸沿いを走行していた同僚とは、地震直後には連絡が取れましたが、津波の情報が入ってからは連絡が取れなく、翌日の昼過ぎにようやく無事が確認できました。
私も薄暗くなってから何とか自宅に戻り家族の元へ。
幸いにも自宅マンションは、被害はほとんどありませんでしたが、余震が続いているため、部屋の中に居れる状況ではありませんでした。
そのため、ほとんどの家庭では避難所や、車中泊で一晩過ごすことになりました。
我が家も家族4人、車の中で寝ることにし、食事は近所の方からいただいたものや、缶詰、お菓子などで初日の夕飯にしました。
食事をしながら車の中でテレビを見て、津波映像にビックリと言うか、恐怖と言うか、見たことのない、こう言うことが現実に起こり得るのだと、ものすごい恐怖感を覚えました。
みんな疲れているので、早く寝たのですが、興奮と寝心地の悪さ、それに収まらない強い余震で、何度も目が覚めると、その度に停電で辺りが真っ暗な車の窓から、やけに綺麗な星空が見えて、生きていることを実感しました。
多くの家庭で電気、ガス、水道が止まりましたが、我が家は幸い水道だけは止まらなかったのでトイレはOKでした。
それに給水車に並ぶこともなかったので助かりましたね。
電気は3日ほどで点いたのですが、ガスは3週間ほどですか、電車も止まり食糧、ガソリンなども入手が困難で、しばらくの間これまでの人生で経験したことのないような不便な生活送ることになりました。
ようやく元の生活に戻りかけていた約1ヶ月後の夜中、震度6以上を記録する余震がまた襲ってきました。
我が家は停電もせず済んだのですが、地域によっては、また停電や鉄道も止まり、それにまた来るという恐怖感で、もういい加減にしてくれって感じでしたね、仕事にも身が入らず、でも、亡くなった方やその家族のことを思うと、特に大きな被害がなかった私は、そんなこと言ってられませんよね。
それから8年、小規模の地震は相変わらずありますが、ただ最近各地で大きい地震が多く起きているのでとても不安ですね。
宮城県沖を震源とする大地震が今後30年内に起こる確率は依然高いので、私が生きている間に、もう一度体験するかもしれませんね、高い確率で、また確率は低いのですが、直下型地震の可能性もありますから、安心は全く出来ませんね。
東日本大震災の後は、防災セットなどの準備は万全ですが、地震はいつどこで何をしてる時に来るか分からないので、いくら備えていても全く役に立たないという場合もありますね。
本当、運に任せるしかないのですかね。
完璧な地震予知は永遠に不可能なのでしょうか。